ゆとり系アラサーの日々のしおり

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内定ブルーで鬱期間の学生に、経験者が伝えたいこと

  10月ももうすぐ1か月が過ぎました。そういえば自分が大学4年生の時のこの時期は、残り半年で社会に出る恐ろしさに戦々恐々としていたように思います。というか、マジで内定ブルーというかうつ状態に陥っていたと言っても過言でありません。あれから約8年。当時を振り返りつつ、その時かなえたことが今にどう生きているのか、つらつら書きたいと思います。

「あれ、やっていけないかも」内定式でとドッと高まった不安

僕が大学を卒業したのは2010年。リーマンショックが起こり、前年の先輩たちの状況から一転、就職氷河期が再来したというタイミングでした。私立文系の中ではそれなりの大学に通っていたので、友達たちはみなメガバンクや大手損保とかに内定を決めていく中、自分には体育会系な営業職や、数字の世界の銀行員には向いていないなと思い、最終的に僕が入社を決めたのは、都内にある小さな人材紹介会社。行きたかった大手に行けなかったという要因ももちろん大きかったですが、頭角を現しやすそうな規模だったのと、事業内容や企業理念への共感もあって、入社を決意しました。あまり知られた会社ではなかったものの、採用面接であった人事担当者や先輩社員はキラキラ輝いているように見えましたし、若い会社だからこそ、自分が苦手な体育会系的な上下関係や、慣例もなく、自由に働けそうだ…なんて思ったことを覚えています。

が、そんな思いが見事打ち砕かれたのが、内定式でした。今思い返すと大したことではないのですが、合宿形式で行われた内定式では「あと半年で社会人になる決意を固めましょう」と管理部の偉い人からの指摘が。また、その日夜行われた懇親会では早速偉い人たちへのお酌なんかをてきぱきとこなす同期の姿があり、こんなベンチャー企業でも、昭和的な頑張り方がまだまだ求められるのだなと、一抹の衝撃を覚えたのです。こんなことなら何も考えずに大手に行っておけばよかったかもしれない―。そんな絶望が自分のもとにやってきました。

人はどうやったら絶望に打ち勝てるんだろうと必死で考えた

内定式から帰ってきた後、僕は大学の同期と会うのもおっくうになってしまいました。自分の会社のことについて聞かれたらどうしよう。来年4月からの社会人生活のことなんて想像もしたくない…そんな気持ちになってしまっていたのです。もともと卒業単位を3年生のうちに大方とってしまっていたこともあって、大学にもいかなくなり、アルバイトに向かう日々。4月からの新社会人生活で嫌というほど働くことはできるのに、なんで自分はアルバイトなんてしているのだろうとむなしくなりました。それでも、「着実に迫ってくる社会人生活を前に、何もしていない」というのも、それはそれでプレッシャーだったので、気持ちを和らげるためにも、アルバイトには通い続けました。

人に会うのもおっくうな状態だった当時の僕は「こんなうつ状態じゃ4月からの社会人生活どころか、そもそも人として終わる!!」と、手当たり次第に本を読むようにしました。当時の僕にとっての最大の関心事は、「人はどうしたら絶望から立ち直れるのか」ということ。苦労して入った大学で就活に失敗した挫折感は非常に大きかったものの、「自分よりもつらい境遇にあった人たちはどうやって絶望から立ち直ったのか」を探りたくて、病に侵された人の闘病記や戦争中の話などなど、とにかく絶望から復帰した人たちの本をたくさん読むようにしました。その中で目に留まったのが、ヴィクトール・フランクルさんという方が表した『夜と霧』という本でした。

「目的意識を持つと、絶望から立ち直れる」

『夜と霧』は、アウシュビッツから生還したオーストリア精神科医のヴィクトールフランクルさんが表した著作。アウシュビッツに収容されたフランクルさんはまさに絶望の淵に立つわけですが、一方、強制収容所での出来事や自身の精神の変化をいつか本にしようと思い立って以降、人生に目的意識が芽生えて、つらい境遇の中でも強く生きていこうという覚悟を決めるようになったそうです。意味を見いだせれば人はどんな境遇にいても頑張れる…ということなのですが、この本を読んだときは衝撃でした。こんな絶望的な状況でも、人生に意味って見出せるんだと。同時に、今の自分にしかできないことが何かあるはずだと思うようになりました。

 自分の苦手分野を痛感していることが、自分の強みだと思った

そして考えた結果たどり着いたのが、「体育会系の世界では自分は戦えないということを知っているんだから、そこじゃないところのスキルをできる限り高め、自分の得意分野で戦うようにしよう」ということでした。端的に言えば、お酌をしたり、偉い人を引き立てるようなコミュニケーションが苦手なんだったら、がり勉らしく、頭脳労働で勝負すればいいじゃないかと腹をくくったという感じでしょうか。

以降、僕は大学4年の12月くらいからMicrosoft Officeの勉強を進め、特にエクセルについてはマクロの入門当たりまで勉強したり、簿記を取ったり、マーケティングの基本的な理論をまとめた書籍、つらいときのモチベーションの高め方や仕事論みたいなものを読み漁るようになりました。こんなもの、本で学ばず実践が大事だ…とは思っていたのですが、当時の自分はがむしゃらでした。頭でっかちでも何かしていないと不安がこみあげてしまうのですから。

内定先の企業からは1月ごろ、配属先の希望部署をたずねるアンケートが送られてきました。採用面接のときには営業職として働きたいと答えていた僕でしたが、当時はもう、体育会系の世界で自分がやっていけるわけがないと確信していたので、「人事」「総務」「営業サポート」など間接部門での勤務を希望。おそらく人事の方も、「こいつなにかあったな」と思ったのか、最終的な配属は、「営業サポート部門」に決まりました。正直なところ、新卒で配属される部門としてはかなり出世コースではない…というか、期待の少ない配属だったと思います。

営業サポート部門に配属され、2週間で異動に

 そして迎えた、4月からの社会人生活。同期の多くが営業部門で活躍する一方で、僕は一人、営業のサポート部門に配属され、社内の営業人員の営業成績をまとめたり、社内データベースの更新作業などを行う仕事をはじめました。

そしてここで、うれしい誤算(と言っていいのかわかりませんが)が起こりました。もともと超絶営業会社だったということも大きかったのでしょうが、社内の人々、本当にExcelが使えない、アナログな方が多かったのです。大学4年生時代に必死で学んだマクロ等の技術を用いて、それまで何時間もかかっていた作業を自動化させたり、営業人員の生産性を測るためのツールをつくったり、何というか好き勝手やればやるほど褒められる循環に入り、「会社に来るのがマジで楽しい」というまさかの事態に。

配属されて2週間でしたが、各部署から相談を持ち掛けられるようになり、改善提案を求められるようになりました。新人の自分にこんなにも期待してくれる人たちがいる。内定式だけで絶望していたけれど、あれは本当に表面的な判断だったんだなと、自分の視野の狭さも実感しました。そして2週間経過した時点で、新設の編集部への異動の話をいただくことになりました。異例の出来事ですごく驚きましたが、これも何かの縁だと思い、それ以降編集者として働くようになりました。

それから8年 当時を振り返って

 あれからもう8年ほどがたちます。もうすでに1社目の企業から転職をし、現在東証1部のそれなりに大きな企業の編集部門にて、編集者として働いています。部下を持たせてもらったこともあり、キャリアとしては順風満帆に歩んでいる、とも言えるかもしれません。

 現役大学4年生の方、就活生の方の中にもおそらく、かつて僕が陥っていたような内定ブルーに陥っている人もいるかもしれません。そんなときはぜひ、「自分がなぜその会社に行きたくないのか」を徹底的に考えてみるとよいのでは、と思います。それでも合わないのであれば、進路をもう一回考え直したっていいかもしれません。自分の向き不向きや、仕事に対する率直な気持ちに気づけただけでも、大きなアドバンテージ。新卒至上主義と言いつつも、まだまだ5か月くらいありますし、挽回なんていくらでも可能ですから。